2008年7月30日水曜日

ブログの更新

もともとは、毎週週末に更新するつもりで始めたのですが、前回の更新から一ヶ月以上たってしまいました。

書かなければとは思うのですが、なかなか書けません。ここからのことを書くのは、やはりとても辛く、相当のエネルギーが必要です。

すみませんが、もう少し時間をいただきたいと思います。

2008年6月28日土曜日

手術まで一週間

手術までの一週間、私たちは、こいぬが少しでも楽しい時間を過ごせるよう、こいぬが好きな場所に連れて行ってあげました。




こいぬが一番好きな海のそばの公園では、いつものようにボールを追いかけて遊ばせてあげられませんでしたが、自転車の前のかごにいれて、『治ったら、また遊ぼうね!』と何度も声をかけながら、思い
切り走ってあげました。






鎌倉の梅の名所、光則寺では、バックの中から体半分乗り出して、梅のいい香りを楽しんでいました。





こうして、手術までの一週間、私たち家族は、ゆったりとした、そして濃厚な想い出を刻んでいきました。

2008年6月15日日曜日

手術を前にして

パパとは逆に、私の場合、こいぬの手術の日まで毎日が臆病との戦いでした。パパを見ていると、こいぬが完治するということを信じて疑わず、ここまで信じてあげられていたら、こいぬも幸せだねと思っていました。私は考えれば考えるほど、不安になり苦しくなっていったのですが、不思議なことに、だから手術をやめちゃおうとは一度も考えませんでした。今の苦しみが早く晴れてくれることだけを祈って毎日を過ごしていました。こいぬとは、できるだけこいぬの好きなことをしてあげたいと思い、3人でお花を見に行ったり、海に行ったり、大好きな公園に行ったりしていました。こいぬは思う存分走りたかったのかもしれませんが、基本的にはいつも車や、抱っこや、自転車の籠の中にいれて運動はさせないでいました。こいぬの食欲はいつもどおりでしたし、咳も夜中に異常な程の奇妙な咳を時々するぐらいで、その前後は何事もなく、平然とした日々でした。よく、僧帽弁がひどくなると、肺に水が溜まり、そのために、犬が伏せの状態で眠れなくなるといいますが、こいぬの場合、そんなこともなく、平気で伏せのまま寝たりもしていました。

2月に入り、私は、今までこいぬの内科的治療のために見ていただいていた日本獣医大の小山先生にご挨拶にお伺いしました。先生は大変お忙しい時間を割いてくださり、私が「東京農工大学の山根先生にこいぬの僧帽弁手術をしていただく」ということをお伝えすると「それは決断されたのですか?」と聞かれました。「はい、いろいろと考えましたが決断しました」とお伝えすると、先生は時間をかけてお考えになられた後に、こう仰られました。「たしかに、外科的治療が成功すれば、今のこいぬ君にはベストな治療ですね。残念ながら僧帽弁を薬だけで完治させることはできないですから、正しい決断なのかもしれない。がんばってください。心から応援しています。」

小山先生もまた山根先生がそうであるように、ご自分の生涯で、僧帽弁や他の病気で多くの犬が亡くなっていく事実を日本中の誰よりもまのあたりにしながら、獣医学の道を切り開かれてきた名医でいらっしゃいます。小山先生の進んできた道は、薬の投与を中心とした内科的医療ではありましたが、今回、手術を選んだ私たちに対してそのような励ましのお言葉をかけて頂けたことに、私は本当に感謝をしています。先生のお気持ちのどこかで、手術にはリスクがあることを伝えたかったのかもしれませんし、なぜ内科にしないのか?と問いたかったのかもしれません。しかし、先生は何もそこには触れられませんでした。その様子は、決して投げ出したり、どうでもいいという反応ではなく、非常に思慮深くお考えになられた後の発言だっただけに、私はその先生の態度にとても感銘を受けました。

こいぬが手術を成功し元気になったら、小山先生のところにご挨拶に行こう、それだけが私のできるお礼の言葉だと思いながら、帰宅したことを覚えています。

変わらない日常


私はとにかく手術が成功することを、硬く信じて疑いませんでした。
自分は本当はとても臆病な性格で、常に様々な最悪の事態を頭の中でシミュレートし、その事態が起こったときのショックを予め和らげようとするたちです。
しかし、このときは全く逆で、手術がうまくいったときのことを常にイメージして過ごしていました。こいぬが再び公園で思う存分遊ぶ姿を思い浮かべると幸せな気持ちで満たされていました。失敗した時のことが脳裏をよぎることは一瞬もありませんでした。
ですから手術までの3週間弱、何か特別なことをすることも無く、今までどうり変わらない日々が過ぎていきました。ただ違ったのは、運動を最低限に抑えたことと、今までの薬に加えてジキタリス系の強心薬を飲ませることになったくらいでした。

2008年6月1日日曜日

2007年1月26日-東京農工大学 手術前の最後の診察

2007年2月14日をこいぬの手術日と決めていましたので、その2週間前の金曜日が事実上、最後の診察日となりました。いつもどおり、エコーやレントゲンをやりましたが、前回からたった2週間しかたっていないにも関わらず、あきらかに素人でもわかるぐらいに、こいぬの僧帽弁閉鎖不全症は進行していました。たしかに、この前後で、こいぬの咳は、夜中になると毎晩というほどに頻度が増えていましたし、またその音も水を吐き出すような「ゲホッゲホッ」というとても苦しそうな濁音でした。犬の咳はよく「カッ」という咳というよりもくしゃみに似た音を出すと言いますが、このころの時期のこいぬの咳は、それとはまったく異質のものでした。

その日、農工大で「こいぬ君の僧帽弁はあきらかに悪くなっています。よって、手術自体にもリスクが高まっていますが、手術をしないと進行は更に早まる危険性も高いでしょう」と言われました。前述したとおり、私たちは既に手術を決心していましたので、その言葉で気持ちが揺らぐことはありませんでしたが、それでもリスクの高まりまでは想定していなかったので、この日は本当につらかったことだけを覚えています。

僧帽弁は、一度悪くなるとその勢いで更に進行するといわれています。こいぬの今回の悪化がもし仮にその予兆だとすると、極端に言うと、2週間後の手術すら決行できないかもしれないと言われました。手術では手の施しようのないほどに僧帽弁が進行しているケースがあるそうです。しかしそれは開けてみないとわからないので、手術当日、胸をひらいてみて、下手すると何も手術せずに閉じるかもしれないということでした。手術を決意した今、私たちはとにかくこいぬが手術まで何事もなく過ごせる事を第一に考えました。そして、後は手術が成功することだけを、毎日祈るだけの繰り返しでした。

こいぬは、咳をする以外は食欲もあり、また遊びたいという欲求も今まで通りでした。ボールを持ってきても、外に出たがっていました。私たちはそれを止めていることがとても辛かったのですが、この間に僧帽弁が少しでも進行してしまうことだけは絶対に避けなくていけないことだった為にすべてのお遊びをやめていました。お散歩だけは、ほんの少しだけ歩くようにしていました。しかし一方で私の頭の片隅には、手術がもし成功しなかったら、こいぬにとっては最後のお遊びかもしないのに、と思うと、切なくてかわいそうでなりませんでした。

こいぬには「手術が終わったら、おもいっきり遊ぼうね。頑張ろうね」といつも声をかけていました。こいぬの僧帽弁手術の日まで、後19日です。

2回目の診察


自分でも本当に情けないと思いますが、2回目の農工大での診察の事は、ほとんど思い出せません。
とにかく、先生に告げられたのは、前回の診察よりも急激に悪化しているということです。そして、今思い出せる事は、先生の説明を聞いているうちに貧血になってしまい、その場にうずくまってしまったことだけです。

2008年5月18日日曜日

手術のタイミング


山根先生が仰るに、仮に手術をするとしてもいつがベストのタイミングかを決めるのが非常に難しいということです。

勿論、早くやればそれだけ、まだ体力があるので、成功する確率は高くなります。

しかし、仮に成功したとしても、何年か後にはまた再発する可能性が無いとはいえません。特に、人工弁への置換を行った場合はやはり、経年劣化を考えなければなりません。もしそうだとして、その時に再手術というのはあまり現実的ではありません。年齢のこともありますし、癒着という問題があるからです。
また、確かにエコーでは進行が認められても、実際にはピンピンしているときに、あえてリスクを取って手術するというのは、やはり決断しずらいものです。

しかし私は、前にも書いたように延命ということよりも、もう一度思いっきり公園で走らせてあげたい、ということを考えていましたので、仮に手術をするならば一日も早く元気なうちにと決めていました。